自分を愛せなかった僕がライフコーチになった理由
【刺激的なサラリーマン時代】
会社を経営して20年。僕はいわゆる3代目社長です。
創業した祖父も2代目の父もとにかくバイタリティ溢れる人でした。
人との接し方も上手で社交性があり多くの人を巻き込みながら事業を拡げていけるような、
引っ込み思案でまったく社交的ではない僕とは正反対のタイプの人でした。
そんな姿を見ていたこともあり、僕は三男だし絶対に家を継ぐまいと決めていました。
大学を卒業するとさっさと家を出てエレクトロニクス系メーカーの営業マンとして働きだしました。
当時のエレクトロニクス業界で見ていた最先端の技術革新は、
時代の3年先の未来を知ることができて内心ワクワクしました。
営業では億単位の金額が動くほどの大きなプロジェクトを担当。
仕事は真剣そのもの。会社では決して笑顔を見せない様にして、いつでもピリピリした雰囲気を出していました。
当時の僕は仕事のためなら死んでもいいというくらい自分の生活のすべてを会社に捧げる「神風特攻隊」のような心持ちで、在り方はさながら心を閉ざしたアサシン(殺し屋)のようでした。
(いったい何に抵抗していたのでしょう(笑))
僕の営業スタイルは決まったお客さまと深く誠実に付き合うことで多額の契約をしてもらう仕事でした。
仕事自体もチームプレーではなく、個人で動いて数字を作るカタチだったので、ひたむきでおとなしい僕の性格にも合っていたんだと思います。
もくもくと毎日のように深夜までヘトヘトになるまで働き、毎日終電を逃していました。
給料は全部帰りのタクシー代に消えていきました。そんな僕をかわいがってくれる先輩方に助けられながら、とにかく一生懸命に働きました。
土日も何かにとりつかれる様に深夜まで働いていていましたがそれほど苦痛に感じたことはありませんでした。
父が体調を崩したのは、そんな僕が猛烈に働いていたころでした。
僕は相変わらず忙しく病気の父のことはどこか他人ごとのような感覚で、実家に帰ることもほとんどありませんでした。
【幸せの絶頂から絶望の淵へ】
2000年のある日。26歳の初夏、父が亡くなったことを仕事中に知らされました。
何の予告もなく父の魂は肉体を離れ、ある日突然、遠い世界へ行ってしまったのです。
忙しかった毎日が突然強制ストップし、何もかもが一変するような事件でした。
残されたのは、経営していた会社の返済不可能と思えるほどの巨額な億単位の負債と立ち行かない会社だけ。
僕は当時付き合っていた彼女と結婚を意識するようになっていた頃で仕事もプライベートもこれからという時、
幸せの絶頂のはずが急転直下、一気に絶望の淵をさまようことに。
【あらがえない人生の大きな波に】
父の会社は急遽、兄が引き継ぐことになりましたが、億単位の莫大な負債を抱えていました。
何とか回復を図ったものの兄はエレクトロニクス分野では素人だったこともあり一向に回復の兆しはなく苦戦していました。
父の死に対して、ほとんどかえりみなかった自分を責めていた僕は同じエレクトロニクスの業界ということもあり、この時思い切って会社を引き継ぐ決断をしました。決断したというよりも、すでにあらがうことのできない大きな人生の波にのみ込まれるような感覚でした。(もう自分がやるしかないか、、と)
当時勤めていたエレクトロニクスの会社では年間数十億のお金を扱っていましたが、家業は数億円の負債で沈みゆくのを待つばかりという厳しい状況。
仕事の規模も天と地ほどの差があり、大都会から島流しにあったようなカルチャーショックを受けました。さらに今さら何をやってもこのままでは立ち行かないという状況の中、毎日、ひとり孤独に絶望するしかないという苦痛の日々を送っていました。
当時、僕は新婚1年目で息子が生まれたばかりのタイミングでした。そんな妻に心配を掛けまいと、僕は安定した企業をやめて借金だらけの家業に入り、先行きも見えない状態だなんてとても言い出すことはできずに毎日ひとり絶望していました。
【罪悪感と罰と償いと】
親から会社を継ぐという宿命は、自分で選んでできることではありません。
(婿に入るというのとはまた違う感覚のはずです)
これは自分の人生なのか、それとも親の人生のレールの続きなのか?
スキルも経験もない僕が、ある日突然走り続けるボロボロの列車の運転席に急に座らされて右往左往。
後ろには既にたくさんの従業員とその家族が乗っているという状態。
燃料が尽きたら二度と動かせない列車です。ゆっくり立ち止まって考える余裕などありませんでした。
何にもしなくても毎日借金の利息は増え続けていく恐怖の中、頑張るとか、一生懸命とか社員を守るとかそんな綺麗でカッコイイものは全く無く、ただただ『今日もなんとか生き延びた』そんな毎日の繰り返しでした。これは経験したものにしか分からない苦悩なのかもしれません。
僕は父の病気に向き合わずに見殺しにしたんだ。そのせいで罰が与えられたのだと。
一生苦しんで償う(父のつくった借金の返済に人生を捧げる)のが自分に課せられた罰なのだ。
と罪悪感にさいなまれながら償いの人生を生きていました。
【絶望の底から心境の変化が】
そんな絶望のドン底まで心が沈んでいく日々の中で、唯一の穏やかな時間は生れたばかりの子供のやすらかな寝顔でした。
何の怖れや不安もない無防備な寝顔をしばらく眺めていると、少しづつ僕の心境に変化が出てきたのです。
最悪の事態の中でも唯一救いだったのが、以前の会社では数十億円の営業実績を作ってきたという経験です。
月に数百万円くらいならすぐに稼げるんじゃないか?!という”根拠のない自信”が湧いてきたことです。
これまでがむしゃらに頑張って成果を出してきた自分なら現状を変えられるんじゃないかと。
まずは気持ちを切り替えて、片っ端から営業に回ることから始めました。
ここから、突然スイッチが入ったように行動を始めました。とにかく片っ端から営業を仕掛け、さらにビジネスモデルや海外のマーケティング戦略についても手あたり次第学ぶことで打開策を模索し続けたのです。
ひとり身ならどんなに楽だっただろう。こんな状況でも守らなければならない家族がいるという苦しみは父の死に向き合わなかった自分への罰なんだ、という懺悔の気持ちもありました。
一方で家族がいるから頑張れたという自分も確かにいました。毎日ヘトヘトになりながら、そんなことを7年くらい続けていると徐々に景気の回復に伴い業績も回復してきたのです。
ただ、いつ倒れるとも分からない体力勝負ではいつまでも続けられないと思い、社長業についてさらに勉強を深めました。
企業規模によって社長のやるべき仕事が違うということが分かってきました。ウチのような小さな規模の会社の場合、社長の仕事はマネージメントではなく、マーケティング戦略と仕組みづくりにあるのだ、と確信しました。そこから手あたり次第あらゆるマーケティングの本を読み漁りました。
【新規ビジネスへの挑戦】
そこで行き着いたのが企業向けのECサイトを自社で作るということでした。
15年以上も前、まだどこの会社もホームページしかないような時代において、『ドットコムサイト』と呼ばれるオンラインで主力商品やコンセプトに専門特化した、お客さま目線で商品を紹介するサイトは珍しくエレクトロニクスの同業他社でやっている会社はほとんどありませんでした。
正直まったくどうなるか分からないという不安でいっぱいでした。
ECサイト制作は当時はまだ一般的ではなく、一から構築するためにとてつもなく大きな投資が必要でした。
莫大な借金を返すために7年間少しづつ貯めてきた貯金を全部使い果たさなければいけないほどの金額でした。
これがこけたら会社は完全にアウト!というような社運(人生)をかけた挑戦でした。
「せっかく業績も上がってきたんだから余計なことはせずにこのまま頑張ればいい!」
「7年間少しづつ貯めたお金を一瞬で使い果たすなんてバカだ!バカすぎる!!」
そんな心の声と格闘する一方で、学べば学ぶほど「やらずにはいられない」という心の声に逆らえなくなり、
「今やらなくてどうする?!」という気持ちが湧いてきたのです。
不安を抱えながらも進むしかない、という新規事業への挑戦。
たくさんのトラブルを乗り越えてようやく形にしていったのです。
スタートしてから少しずつネット検索で見込客が集まるようになり、営業に行かなくてもECサイトを通じて全国から徐々に注文が入るようになりました。
マーケティングやコピーラーティングの勉強を必死にしながら、効果がありそうなアイデアはなんでも試しました。
オフラインで研究会を立ち上げたり、ゲスト講師を招いて自社セミナーを定期開催したり、徐々にブランディングを強化しながら業績を伸ばしていきました。
ECサイトから24時間体制で注文が入り続けるということは、今までのようにがむしゃらな体力勝負の営業をしなくてもよいということです。今思うと深い信頼関係を作る営業という仕事は好きだけど、無理な売り込みするのは大嫌いという僕らしい戦略でした。
ECサイト戦略が軌道に乗ったころ、さらに同じお客様企業向けに別ジャンルの複数のWEBサイトを立ち上げ、お客さまが求めているものをクロスマーケティング的に提案する手法を試し始めました。こうして最小限の人員で大きな業績を上げる仕組みを構築できたのです。
こうしてようやく数億円の負債を完済できたのはここからさらに8年後。。。
紆余曲折を経て気づけば会社継承してから15年の歳月が経っていました。
【徹底的に自分自身と向き合う体験】
当時、ゼロから作ったビジネスは少しずつ安定してきた一方で、これまで自己犠牲をやり続け、仕事に没頭してきたあまり、家族、パートナーシップ、社員やメンバー同士の不本意な人間関係が重くのしかかってきていました。
自分は社長として身を粉にしてがんばっているのに、なぜみんな幸せそうにならないのかとイライラしていました。
みんなに恩返しがしたいのに、どうしたら幸せになってくれるのか? 僕は一体何が出来るのか?と。
『もっとみんなの負担を減らすには、自分がもっと頑張らなければ』
『もっと勉強して、みんなにとって居心地のいい環境を創らなければ』
そんな事ばかり考えていました。
ところが現実は全くの裏返しでした。
『なぜ人のために頑張れば頑張るほどバランスを失っていくのか?』
『なぜ仲間同士で互いに傷つけ合うのか?』
『なぜ頑張り続けるほど望まない現実が繰り返されるのか?』
外側の現実を変えるために、僕は答えを探し続けました。
チームビルディングやコミュニケーションスキルについて勉強したいと思い、そのころからワークショップやスクールでいろいろと学びはじめ、そこで初めて「心理学」の門をたたきました。
不本意な現状をどうやって変えうるのか?そんなノウハウを学ぶつもりが一転、その時経験したことは、徹底的に『自分自身と向き合わされる』という体験でした。
『あなたの“犠牲”の上に、あなたの大切な人の“幸せ”はないよ』
当時の先生から頂いた一言です。
頭をハンマーで殴られるとは、きっとこういうことなのでしょう。
人の為、みんなの為と言いながら、
■自分をないがしろにしてきた人生
■自分を大切にしてこなかった人生
完全なる自己愛の欠損。
自己尊厳の欠落でした。
『そんな人間が人を幸せにできるはずがない。
あなたには無理です。
何を学んでもあなたには何も変えられない。』
とズバッと突きつけられてしまったのです。
『なぜ人のために頑張っている事がいけない事なのですか?』
と、僕が歯向かう様に言い返すと、先生はただ一言
「もがきなさい」
と、そして呼吸が止まって動けなくなるほどの真剣な眼差しで
『自分を大切にすること”だけ”をやりなさい』
とおっしゃっていただきました。
これが先生から頂いた僕の最初の
”人生の課題(ミッション)”でした。
そう。
人生を変える最初の一歩でした。
【自分を大切にするって何??】
僕は純粋に“自分のためだけに何かをする”という経験をたぶん人生で一度もしたことがありませんでした。
その後は、いったい何をしてよいのかも分からず1週間ほどは混乱して仕事も手につかない状態でした。
藁をもすがる思いで「自分を大切にする」というキーワードでネット検索してみたり、、
ネット記事を印刷してラインマーカーを引いたりして、ついには数十枚のレポートまで作成しました。
(まさに、もがきまくってましたww)
『僕は何がやりたくて、何が嬉しいと感じるのか??』
人のために自分を殺して奉仕し続けた結果、そもそも”感情を感じる”とは何なのかが分からない。
そんなおかしな状態でした。
それでも感じたことを少しづつ言語化し、自分を大切にするために自分がうれしいと感じることを毎日少しづつ実行する生き方を始めることにしたのです。
具体的に何をやったかというと、ずっと作りたかった会社の事業計画書を作ったり、理想の人事システムを考案したり、
(最初は慣れていないのでどうしても仕事っぽいものになってしまいました。笑)
こうして毎日やったことと感じたことを日記のように記録を付けながら、普段まったく意識を向けてこなかった自分というものと少しづつ対話ができるようになってきました。すると、やることも少しずつ変化してきました。
例えば自分のためにランニングをはじめたり、
一日中好きな本を読んでみたり。
(こんな事してていいのか!?とかなり不安になりましたが。笑)
そんなある時、
僕にとって一番勇気のいる挑戦をしました。
それは、『家でご飯を食べる』ということでした。
結婚してから十数年、ほとんど家でご飯を食べたことがありませんでした。
平日は0時を回ることも当たり前で、何時に帰れるか分からないのではじめから家では食べなくなり、いつの間にか習慣になっていたのです。
僕にとって、家でご飯をゆっくり食べるということは、会社をサボるということを意味していました。ただでさえ父親が深夜まで働いても会社は苦しかったのに、自分みたいに経験も少ない社長が会社を放り出して家に帰っていいわけがない、と。
また、家族団欒のゆるい幸せを味わってしまえば、二度と厳しい決断の世界に戻れなくなってしまうのではないか、という怖れもあったのです。
いずれにしても会社が無くなるということは僕にとっては家族、仕事、お金のすべてを失うということ。
つまり死に直結する恐怖でした。
それは帰れるはずもありませんね。
でも、勇気を出してやってみたんです。怖れていた家族団欒を。
やってみたら何も起きませんでした。(笑
むしろとても穏やかな気分になりました。
次の日そんな気持ちで会社に行くと、心なしか会社のみんなの雰囲気も良くなったような気がしました。
何も手を加えていないのに、どうして会社の雰囲気が明るく穏やかになったのだろうととても不思議な気持ちになったのを覚えています。
【心の底から湧き上がる『感謝』の気持ち】
そうやって少しずつ毎日満たされることをやっていきながら、そこで感じた感情を毎日日記に書き綴っていくと、ほどなくしてそこで体験したのは心の底から湧き上がる「感謝」の気持ちでした。
今、自分がこうしていられることが、どれほど有難いことなのか。
まわりの人がどれほどの想いで一生懸命に生き、最善を尽くしてくれていたのかと。
ひとり黙々とランニングをしながら周りの人への感謝がとめどなく溢れてきて毎日毎日走りながら泣いていました。
(汗だくで走っていたので誰にも気づかれずにいたのは幸いでした(笑))
自分がみんなのためにやっているどころか、
真実は家族や周りの人達が自分のすべてを支えてくれていたのだ、ということにはじめて気が付いたのです。
【人生からの問いかけ】
人生最初の課題(ミッション)をくれた先生にこの体験を伝えると、
先生は全てを分かっているかのように何も言わず、ただ一言こう問いかけてきました。
「では、あなたが今、本当にやりたいことは何ですか?」と。
その時、真っ先に湧き上がってきたのが、「人の内面の輝きや美しさを引出すコーチングをやってみたい」という想いでした。
それは考えて答えるなんていうものではなく、
全身で『BIG YES!』というような内側から溢れる歓びからの答えでした。
誰もが感謝と歓びに満ち、自分を愛し、自分の美しさを感じながら
人生を思いっきりイキイキと表現する姿を見てみたい。
それこそが人が最も輝く美しい姿なんだ。
そんな心からの幸せを目の前の大切な人たちと共に分かち合いたい。
それが僕にとっての喜びだと気づいたんです。
仕事をしながら、すぐにコーチングの学校に通い始め、半年間学んだあと、その後わずか2か月で100人にコーチングをするという目標を掲げて達成し、そのままさらにプロコースに進み数百人のコーチングを実践し晴れてプロのライフコーチとしての活動を始めました。
【何かを手放してください】
僕にとって祖父の代から続いた会社は、ずっと自分のものじゃなかったんです。
これまで父親への懺悔の気持ちで『会社を潰してはならない』『なんとか維持しなければ』と償いの気持ちで自己犠牲を続けてきました。
ですが様々な素晴らしい方たちとの出会いや学びの体験を通じて、僕は改めて大事なことに気が付きました。
その時、コーチから『何かを手放してください』と言われました。その先に答えがあると。
今、手放すもの。。。
ようやく分かったのです。
それは、『父親を見殺しにしたという罪悪感』なんかではありませんでした。
今、本当に手放すべきものは『人の為、会社の為』と、誰にも否定しようのない大義名分を振りかざして、
『本当の自分の人生を生きること』からずっと逃げ続けてきた自分だったのです。
自分の人生にチャレンジするのが怖いから罪悪感を手放さない。
僕はこれを達成するために、『父親を見殺しにした罪悪感』を持ち出して、決して安全領域から出ることなく、
必死に頑張る悲劇のヒロインを演じ続けて生きてきたのです。
手放すべきは、
この弱くてズルい自分自身”でした。
僕は、両親からもらった素晴らしい才能やリソースを発揮することなく、自己犠牲を盾にして、弱く、ズル賢く、偽善的に生きてきたのです。
しかし、これが最大の親不孝であると気が付いたのです。
本当の親孝行とは、『子供が自分の足で自分らしく生きていく事』です。
だからこそ、自分が持って産まれた天賦の才能を発揮し、命の喜びに向かって自分を発揮していくこと。
それが親孝行なのだと身に染みて分かったのです。
親孝行は自分次第でいつでもできるのです。親が生きているかどうかなんて全く関係ありません。
十数年の歳月を経て会社の負債を完済できた今、ようやく親孝行ができる時がきたのではないかという気持ちになりました。
その時に天国の父から「もうお前の好きなことをしたらいいよ」と言ってもらった気がしたのです。
この授かった命を、
僕が僕らしく『ありのままの自分を愛して生きる』ことが一番の親孝行なんだ、と。
もしかしたら、生きているときは仕事ばかりでほとんど家に帰ってこなかった父が、死んでからずっと僕に試練を与え続けて子育てしてくれていたのではないかと思えてきました。これまでの辛かった道のりにも感謝の気持ちが溢れてきたのです。
自分という人間は何に喜び、何を探求したがっているのか?
自分はこの世界で何を体験するために生まれてきたのか?
この時に初めて、本当の自分と繋がり
『誰に認められなくても、誰に褒められなくても、本当の自分の人生を生きよう』と決心したのです。
【命に運ばれていくように生きる】
僕は40歳を過ぎてから、今までのキャリアとは全く関係のない初めての世界にチャレンジするという体験をしました。
それはまるでスカイダイビングのように未知の空に無防備な身体を放り投げるような不安と希望の入り混じった体験でした。
しかしそこには世界への絶対の『信頼』がありました。
これは僕の生まれてきたミッションに違いないという信頼です。
そしてこれまでの人生のすべての経験がこのミッションのためのリソースになっていたのだと。
それは何かに抵抗しあらがう自分の執着を手放して、
ゆったりと命に運ばれるがままに身を任せて心地の良い安心感と心の歓びを感じながら生きていくということです。
自分の創りたい世界をイメージし、自分自身がその体現者として今を生きていくと決めた瞬間から人は生まれ変われる。
そしてそれはいくつになっても、いつからでも、
私らしい、”本当のわたしを生きる” 日々はスタートすることができるのです。